静岡県沼津市
http://www.ricoh.co.jp/about/company_fact/map_man/numazu2.html
感光紙製造オペレータの設備保全能力の向上
(1)教育担当者の養成
(2)設備保全教育のカリキュラム設計と教育体制の提案
(3)教材開発
(4)教材開発の援助
1978年、79年
<南 武男氏(現場オペレータから教育担当に配属、執筆時は保全教育リーダー)の報告より>
沼津事業所は、コピー機などOA機器の消耗品を製造する工場として、1962年に創立、従業員は1600人である。
1970年にTQCを導入、1975年デミング賞を受賞、品質に対する管理技術は向上したが、設備面での固有技術・技能が不十分で、設備故障やトラブルが日常茶飯事のように発生していた。故障復帰や設備保全は保全員に丸投げで、製造現場は「あなたまかせ体質」であった。オペレータの高齢化が進む一方で、設備面での自動化・高速化が進行し、業務は単純化の方向にあり、モラルダウンの危険性が心配されていた。
このような状況から、オペレータに対する設備保全能力とモラル向上の対策として、設備保全教育実施の方針が打ち出された。
委員会が発足しさまざまな具体例を検討したが、参考になるよいやり方はなく模索状態であった、その時期に、日経新聞に紹介された能開センターの学習システムを知った。
1978年1月、実際に能開システムを導入した大日本製糖(現関門製糖)の門司工場を見学、検討を重ねた結果、当社が求めていた設備保全教育に最も適しているのはこれだということで採用することになった。
早速、インストラクターとして5名が選任され、教育システムの導入準備と、製造部門へのPR,そして能力開発工学センターのセミナー(学習システム設計者養成講座)受講の運びとなった。教育担当部長に呼ばれ、自分が5名のうちの1名であることを知った。1978年3月のことであった。
5名の教育担当者に、主体的行動を育てる行動学習についての基本理念と方法をつかんでもらう必要から、JADECが行っているセミナー「学習システム設計者養成講座」(10日間,定員10名)の受講を通じて、目標行動の分析からはじまる学習システムの設計・学習実験・評価、さらに学習指導の方法などを指導した。
5人の教育担当者と協同して、現場装置のオペレーション行動の分析、さらにオペレータのレディネスなどの調査を行い、学習の目標とカリキュラムを設計した。
学習目標は、保全教育の前提となる自分の仕事の対象である装置や機器が、どのようなメカニズム(電気と機械の関係)で稼動し、その状態を生み出しているかを読み取れるようにすること、その上にトラブルや故障がおきた場合、その現象から原因を推測できるようにすること、とした。(■開発した学習コースと学習内容の概略参照)
いかに現場のシステムに結びついた学習にするか、調べたいと思ったらすぐ現場に出かけられるような学習環境にするかがポイントであることを提案した。こうすることで、装置の操作手順が中心だった教育を、自主的探究的な行動学習方式に切り替える基本の枠組みが出来た。
いわば、近年企業内教育の新しい方向として注目されているワークプレースラーニング*(Work Place Learning)とも共通するもので、働く現場の一人ひとりのスキル・アップと、組織としての行動力向上を目的とした学習の仕組みをつくり、日々の実務のプロセスに組み込む教育の体制とみることができる。
オペレータたちの学習は、仕事に入る前、もしくは仕事を終えた後の1~2時間、数人ずつが交代で「学習センター」にやってきては勉強する、という体制が出来上がった。
学習は、プログラムテキストをガイドとし、準備されたシミュレータ教材などを使って、主体的探究的に行うもので、2~3人のグループで進めていく方式。教育スタッフが、開発の傍らアドバイスをする、というやり方を提案した。
学習センターでの学習 |
工場現場での学習 |
1978年11月には、工場の敷地内にプレハブの「設備保全学習センター」が誕生した。教育スタッフが学習システムを開発する場所でもあり、そのすぐ隣にオペレータが学習する場所が確保された。
この間、JADECスタッフは何回も現場に足を運び、時には泊まり込みでリコースタッフ6名(1名増加)を指導しつつ開発を進めた。分析、設計、教材の試作に当たり、2年間で数十冊のテキストと100種以上のシミュレータ教材や観察用教材を開発した。
JADECスタッフが基本構成をし、リコースタッフがそれに従って教材とテキストを試作し、それを修正するという方式で行った。テーマによっては、JADECが全面的に開発したものもある。
学習教材開発風景 |
プログラムテキスト軍 |
リコースタッフの開発力がアップした3年目以降は、リコー側の新しいニーズに合わせて、スタッフのペースで開発が行われるようになった。随時相談にのり、テキストや教材を修正し、必要に応じて工場を訪問してアドバイスするという体制で開発を支援した。
こうした援助活動は、時期により粗密はあるものの、以後20年近く続いた。
<リコー沼津事業所生産効率推進部 南 武男、川島年久、両氏の報告*より>
当初の設備保全を目的にした学習によって、オペレータたちのトラブルや故障への対応能力が上がり、ロスが半減、製造装置の稼働率が上がっていったのは当然であるが、同時に仕事に対する意欲も高まった。学習の内容もロボットなど現場装置の高度化に伴って拡充、6年後の1985年には、「技能研修センター」と名前を変えて沼津事業所におけるハイテク化に対応する社員研修を一手に担うことになったが、こうした過程においてオペレータのやる気や意欲が高まっていたことによって、オペレータに新しい技術をスムーズに育てることができた。
その後、製品の多品種化、短ライフ化が進み、業界の競合も激しくなったことから、生産体質の革新を図るため、1987年にTPM(全員参加の設備保全)が導入されたが、TPMによる自主保全活動を支える上で、技能教育はまさに車の両輪のごとき役割を果たすことになった。1989年には、センターは再び「TPM道場」と名前を変え、現場で必要とされる教材を次々に作って、ニーズに応えた。
こうした活動の結果、“教育は重要である”“設備管理は重要である”との認識が、製造現場に広がり、各製造課ごとに職場の一角に「保全道場」が誕生した。TPM道場は、事業部全体を統括した教育の場で、そこで学習した知識や技能を基盤に、自課にマッチしたより現実的な教育さらには改善を実施するのが保全道場である。
こうして、TPM道場における教育が現場の仕事とがっちり関連することで、内容もますます充実し、積極的な推進が行われている。二つの道場での教育がTPMの自主保全活動を支えているといっても過言ではない。
*「TPM推進を支える製造部門と教育部門の連携」JADEC紀要61号(1991)